20年経って想う事

  • 2011.05.13 Friday
  • 08:00
JUGEMテーマ:人生論

「結局・矢張り・そこいら辺」と言うタイトルで、

http://yanagitakunio.web.fc2.com/hajimeni.html


『「何を考えていても、何かをしていても、いつもぶち当ってしまうところ、足を引っ張ってしまうもの、何か変だなと感じるもの、まずそれを解決してから進みたい何か。
そんな事を考えている内に十年経ってしまった。余生を如何に生きるか、これが今の私に課せられた課題である。 
結局とどのつまり、私の勘違いしていた事は、年をとれば皆物が分って来て、どんどん進歩していくものだと思い込んでいたことである。
ある時ふと、『親からインプリントされた物が間違っていたら大変だぞ』と言う疑問が湧いて、これが学校の先生、会社の上役と拡がって行くのだが、この目上の者不信が焦りを生じさせ、やる気を無くさせる元凶のようであった。
私は四人兄弟の末っ子であるので、いつも自分が間違っていると思い込まされていたみたいである。三十過ぎる迄年だけは追い付けないと言う事に気が付かなかったのだ。
つまり人間は一時たりとも同じ時は無いということにもつながり、思い付いた時が行動に移す時でもあるという事である。 
最近今迄持ち続けていた疑問がやっと自分なりに分かるところ迄来て、気分的にも自分を攻めまくることがなくなり、非常に楽になって来たので、丁度人生の半ばを過ぎた記念にもなる事であるし、書き記しておきたい。」』

始めた普遍性追求の旅もかれこれ20年以上経ってしまった、

最初の頃は頭の中のもやもやがあと少しで解けるのになと苛付かされたものだった、つまり頭の中の短絡を取り除いて宇宙と一直線で繋がりたいと言う欲求がむくむくと頭をもたげていたのだ。

最近祖父の文章を読み直して見てやっと理解出来る感じがした。

『「私は何しろ年を取り、活きる力も残り少なになってから、遅まきに気が付いたのだから容易なことでなく、従ってまた後々の参考にもなるのである。」
「実はもう二十年以上も前から、うすうすこれが心配になり出して、少しずつ知識慾を制限しようと試みた。」
「何でも知っておろうとするような望みはまず棄てて、ただ自分の生活から、必然に起って来る疑問だけに、答を求める方へ力を傾けようとした。」
「ところがそうなるとまた意地悪く、今まで何とも思わなかったものに興味が動き、垣根の外を覗くような好奇心が、際限もなく自分を引っ張り付けて、しまいには生活圏をいびつにしそうなおそれがあった。」
「そこで対策としてまず活き方を単純にし、元来素人であった芸事や勝負事と縁を切り、幾つかの観覧物をを次々に断念して時間を作り、後には気休めの理窟をこしらえていろいろの社交から遠ざかり、一方にはまた職業というものを持たずに、どうにか活きて行かれる工夫をしたのは、相応な辛苦であった。」』 

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