魂才一致の勧め

  • 2017.05.09 Tuesday
  • 13:51

魂才一致の勧め


社会が変わらないなら自分が抜けるしかない


日本はどう見てももう一度鎖国時代に戻ってそれこそ国際社会から痛い目に遭わされないと目が覚めないみたいだし、筆者はそれに付き合っている時間も無いし、嫌ならやめるという方針から見ても筆者が日本人をやめるのが一番だと思います。

今迄「嫌ならやめろ」を座右の銘として生きて来た自分にとってイデオロギーが相容れない国民でいる事に忍びないのです、既に25年の考察から日本人の文明化は無理だと結論付けた今、最後に残されたものは国籍離脱しかない、日本人でいる限り傷付きまくるからです。

補足しますが日本人でいる限りこの論も個もない前近代社会、中世の癒着談合隠蔽の世界を見ている限り自分を傷付けるだけだし、移住すれば良いなんてのは甘い考えで、移民それも市民権獲得、国籍喪失届け提出までしなければ人生を完結出来ないのです。


海外移住にも色々あります、難民、移民、政治亡命等ですが、日本の場合難民、政治亡命には当て嵌まらないですが、政府から迫害を受けないまでも充分世間から受ける、日本人は警察が要らない程お互いに干渉しあって生きている不思議です、これで共謀罪でも成立すれば日本人を政治亡命で受け入れて呉れる国も出てくるかも知れません。


魂才一致の勧め


一般的に日本人は筆者が「女房みたいに洋魂洋才で育った人間はあっけらかんとしてますよ」と言ってもポカンとしてるしましてや、和魂洋才の弊害、脱亜入欧が間違っていた等と言おうものなら即セルフプロテクションモードに入る事請け合いって事、自分のの安寧を乱すなって顔して。

でも洋魂洋才の世界で生まれ育った女房と和魂洋才の世界で育った筆者の苦悩、困難、葛藤の量の差ってのが想像を絶するもんだって事は死ぬ前に是非皆さんに理解して頂きたいと思っています。


日本も早くネオ和魂一神論をでっち上げて和魂和才にするか、洋魂洋才の属国として隷属的立場を取るか考えた方が良い、日本会議がいくら知恵を絞っても今の和魂じゃ洋才は回らない。


女房も自分は世界情勢に余り関心ないのよねこれって変な事なのかしらって言うから、お前は洋魂洋才の環境で育った体制側で俺は和魂洋才の環境で育ったマイノリティーだからじゃないかって答えたけど、西洋人って実に呑気で良いよね、筆者みたいに人生こねくり回さないで済むから。


女房に「詰まる所黄色は白にはなれないって事よ」と言っても、今迄自分は白を意識して物事を考えた事が無いと言うし、洋魂洋才の環境で育った女房にとってそのことでアイデンティティークライシスに陥ることが無く実に屈託無く暮らしているという事です。


それにしても筆者の女房は良く働きます、これは幾ら感謝してもし過ぎるって事は無い、洋魂洋才の環境で育った女性がいかに屈託無く、ユニバーサルに動けるかってのをまざまざと見せ付けられる、ノマドもへったくれも無いこれだけはノマドを叫ぶ日本人が幾ら騒いでも否定は出来ません。


洋魂洋才の環境で育った女房が屈託も無く異国に来てリモートアクセスで海外サーバーに繋ぎ金を稼ぎ空いた時間は英語を教えて金を稼ぐ姿を見て、日本人の言うグローバルって一体何なんだと疑問に思わざるを得なかったですし、これが和魂洋才の弊害であり翻訳文化のオフライン文化だとも気付かず何の手も打たずにいるから尚更です。


今まで哲学的には普遍主義、政治的には大和民族党と言って憚らないし、そこには矛盾を孕んでいる事も承知していると言っていましたが、今回国籍を離脱する事により、その矛盾を取り払い、政治的にも普遍主義を採る事が出来た、今迄この大和民族という事が大きな足枷になっていた事を今更ながらに感じます。


これからはQOLの追求しかない


日本に見切りを付けたのが2000年、人は失われた20年とか言うが誰一人として取り戻そうとする人間がいない、「日本を取り戻す」とか菜っ葉の肥やしだけですし。


日本人に普遍主義を理解させるのは、イスラム教徒にクリスチャンになれと言ってるのと同じで無理だ、聖俗を分離する事で科学ひいては近代文明を発展させた西欧、聖俗一致を唱え普遍主義を拒絶するイスラム、聖俗未分離の前近代中世社会のまま残ってしまった日本、人為とは思えない程次元を超えているとツイッターでも幾度となく呟いたし、エッセイにも書いたし、それをアマゾンから出版もしたてな訳で、日本人の文明化は天地がひっくり返りでもしなけりゃ無理なので、筆者は当面は専らQOLのアップだけを考えて行きたいのです。


50の時に人格統合も兼ねて自伝をしたためましたが、そろそろ終活期に入る、マヌ法典で言や遊行期って言うのか、もう飽きましたウヨサヨごっこは、後は愛する女房に尽くして生きるしかないです。


日本の特異体質は考え尽くしましたし残るのは国籍離脱への道のりと、WM(血液ガンの一種)サバイバーとしての記録だけだ。

後は愛する女房に尽くすだけ、女房が居てくれたお陰で本当に救われましたし、これだけは幾ら感謝してもし切れないのです。

ワンネス

  • 2017.05.09 Tuesday
  • 13:49

最後に兄と会った時兄がこんな事を言った、


「君はお爺さんと一緒で、縦横のインデックスが繋がってないと気がすまないのよ」と、さも僕の文章を読んでいる事をほのめかすように言った。

「為ちゃんともそっくりだ、僕にはそういった所が無いから救われた」とも言った。

この「縦横のインデックスが一致しないと気が済まない」って言葉を一時多用していた事がある。

これは祖父の頭脳が恰もリレーショナルデータベースの様であり、父のそれはカード型データベース位の違いが両者の間にはあったという意味合いでだ。


「一方母から受け継いだ片意地な潔癖なども、世渡りの上には少し不便であったが、これとても子孫が似てくれないことを願うほど、悪いものとは思っていない。」


と祖父もどこかで書いていたが、自分は正義が曲げられないし、世間に阿れないし、妥協も出来ず、如何なる矛盾も受け入れられない。

普段から自分のセオリーは国籍離脱しないと完結出来ないとは言っていたものの、これが和魂洋才という最後の矛盾を取り除く事になるとまでは思い及ばなかった。


25年前に自分が一体何が気に入らないのか予備知識の入る前に書いておこうと思い、思いつくままに書き連ね500部だけ非売品として刷り、名刺がわりに配っていた『ワンネス』の最初に


「何を考えていても、何かをしていても、いつもぶち当ってしまうところ、足を引っ張ってしまうもの、何か変だなと感じるもの、まずそれを解決してから進みたい何か。 そんな事を考えている内に十年経ってしまった。 余生を如何に生きるか、これが今の私に課せられた課題である。」


と書き、それから始めた所謂自分探しの旅だが、


ワンネス


「結局私が追求してたのは、ワンネスということであり、ノーバウンダリーだった事が分かって来た。

つまり物と心の二元論を一元に持っていく、二面性のあるものを限りなく一つにするその努力だったのである。

つまり本音は建前に、主観は客観に限りなく近づける努力をする訳である。」


といつの間にか普遍主義追求の旅へと変わって行った。


思えば25年、

ワンネスに始まりワンネスで終わる、

回帰だ、

魂才一致の原則、

和魂和才の柳田國男、

和魂洋才の福沢諭吉、

両方とも敗退したので、

残るは、

洋魂洋才の内村鑑三しかいない、

哲学的にも普遍主義、

政治的にも普遍主義だ。


今回国籍喪失届を領事館に提出して初めて魂才一致が達成された事に気づいた。

普段から国籍離脱しない限り自分のセオリーは完結しないと言っていたものの、それが何故なのか明確じゃなかったのである。

これで名実ともにリベラルになれた。

面白いもので、普段モットーにしていた、国籍を超え、年齢を超え、性別を超えるというスローガンが普遍主義の実践そのものだと知ったのもかなり後になってからだし、ニコラスクザーヌスの所謂、個は全を包含する、一にして全なる個ってのを体感したのも20年掛かってるし、今回25年目にしてやっと魂才一致の原則が、25年前に書いた『ワンネス』と一緒だという事に気付いた。


祖父の霊に導かれ始まった日本の特異体質の追求は再び霊に導かれ終わり、そのまま普遍性追求へと変わって行き、ワンネスの追求に始まり国籍離脱する事で魂才一致という最後の矛盾を取り除きワンネスで完結する事が出来た。


柳田國男を学ぶのか柳田國男に学ぶのか


國男に学ぶ為には、先ず國男を学ぶ必要がある。彼を知る為には、彼のメンタリティーを知らなければならない。 彼の「知」の「技法」を学び、方法論を学び、初めて彼を学ぶ事が出来る。彼に学ぶのはそれからである。


史心 内省 実験


次の図式は柳田國男の基本的な考え方を自分なりに纏めたものです。

國男の考え方の基本

昨日今日明日

史心内省実験

過去現在未来


柳田國男が主張し続けた史心・内省・実験は、各々が過去・現在・未来に対応しているかのごとくに映る。

その大きなうねりの中に、昨日・今日・明日という小さな波が繰り返される。

それは、日常の小さな営みが繰り返される事が、世界の大きな営みを造り出して行くというダイナミズムである。

彼のこの思考方法を理解出来なければ、彼の壮大な考え方は理解出来ない。

これは、自分自身の昨日・今日・明日を考えずして、国の過去・現在・未来を語る事は出来ないという事である。

自分自身の昨日・今日・明日、つまり日常生活のサイクルを、史心・内省・実験のサイクルの中に置く事により、過去・現在・未来を正確に把握する、これが柳田國男が独自に編み出した認識方法なのである。

彼が、哲学は避けて通ると言いつつも、方法論は充分哲学的なのである。

内省を中心に据える事自体が、自分自身を相対化するという哲学の基本なのであり、内省により括り出された理念を実践する事が、彼の所謂実験そのものであり、未来への指針なのである。


柳田國男が和魂和才を追求してた事は逆から言えば和魂洋才への警告である、巷では民俗学は無化したという人間迄出るに至ったが、逆から言えば和魂洋才として如何にも存続し得たような他の各論こそ形骸化してしまっているのに気がついていないだけなのではないだろうか。

つまり、筆者が言うように海外の学説は全てデカルト以降の社会に対応しているのに日本人は無視するか、気が付きもしていないからである。

和魂和才を馬鹿にする人間は和魂洋才が行き詰まっている事にすら気が付かない、それはひとえに洋魂の研究が足りなかった為である。


と「個人学」の勧めでも書いたが、

柳田國男の教えは此処でも生きていた事を再認識させられた。


「私はいつでも現在にとらわれている。変化を受けた、いろいろの影響を受けた日本人を知りたいという心持をもっている。しかしそれをやっておったら研究が非常に複雑になる。なんなら今から若い人たちの見方に加わってもよいが、もとは古い旧日本だけに力を傾けていた。少しく妥協的に聞こえたかもしれぬが、私は久しいあいだ「日本人らしさ」という言葉を使っていた。若い人たちはそれを解して、西洋の文明を受けて生きておくこともその「日本人らしさ」のうちのように考えたかもしれないが、自分だけはそれを固有のもの、開港以前からあったものというつもりだった。あるいは二つに分けて、現代の日本人らしさを知るのを、第二部とでもいっておいたほうがよかったろうか。」


残念ながら柳田國男の括り出した日本人らしさは悉く近代文明にそぐわないものだったが、今迄幾多の日本人論は語られたもののこの第二部を試みた人間は居ない。

この意味でも筆者が日本の特異体質の追求に引き続き普遍性の追求を試み、洋魂洋才の環境に移住し帰化するに至ったのは我ながら感慨深いものがある。

結局最初から最後まで祖父の霊に助けられた。

素晴らしいオーストラリアの医療システム

  • 2016.10.30 Sunday
  • 09:07

JUGEMテーマ:人生論

 

女房を通してオーストラリアに恩返しをしたい

 

今も女房が退屈したと言うので街まで散歩に出たが日曜日とあって静か過ぎてカフェでお茶する気にもならないので帰って来た。

 

元々が俺のリハビリの為に始めた散歩だが、週一の買い出しも一緒に行かなくなったので散歩は女房とのコミュニケーションの必須事項だった事を再認識させられる。

 

以前散髪して貰った時美容師のサムと市民権申請したよなんて話した事があるが、

 

サム「お前はもうこっち長いんだから当然貰えるだろう」と半ば困惑顔で言った。
自身がイタリアからの移民でも最近の移民政策には皆少しやり過ぎじゃないかと懐疑的なのだ。
俺「でも俺何もこの国に貢献してないからな」、「女房に代数教えて公認会計士にした位だ」と言って笑った。
俺「国家歌えないし」
サム「皆同じさ、2番まで歌える奴は滅多に居ない」

 

今迄は女房の幸せを通して自分の幸せを追求すると無私、滅私の境地に居たが、基本手には今も変わらないが、これからは積極的に恩返しをする事を考えなきゃならん。

 

何せ只で俺の血液がんを治療して呉れて、その上市民権まで呉れるって言うしこれ以上の事があるか?

 

教育システムの素晴らしさは以前書いたので今回は医療システムの素晴らしさを少し書きたい。

 

専門医にかかる為にはGP(General Practician)に紹介状を書いて貰う必要がある。

 

紹介状は通常一年で更新しなきゃならないが、GPが一筆indefiniteと書くだけで永久に通用するようになる。

 

たまに病院の受付の婆さんが次来るときは紹介状新しく持って来なさいと高飛車に言う事があるが、これはindifiniteだぞと言っても頑として聞かない、結局初診料を払わせるのが彼女らの使命らしい。

 

最悪な事にindefiniteの紹介状は同じ病気では同じ医者は一度しか発行出来ない規則があってGPを変える事を余儀なくされる。

 

大体こちとらホームドクターなんて洒落た人居ないからどうしようもなく、近所のクリニックで別のGPに依頼するっきゃ無い、専門医の結果はそのGPの所に戻らないと教えて貰えないから厄介である。

 

健康保険は歯科と眼科を除いて皆カバーされる、歯、目、ま○なんて言うから死活問題にもなり兼ねない。

 

バルクビリング(bulk billing)というシステムがあって医者が8.5掛けを受け入れれば保険が全てカバーして呉れる有難いシステムである。

 

又医者の裁量で薬が半額になる有難いシステムがある、医者には金持ち面して行ってはいけない。

 

今回ラッキーだったのは以前は政府から$14,000の補助を貰わなきゃならなかった俺の血液がん用の薬が保険でカバーされる様になっていた事である、これで10年延命出来ればその内新しい薬が認可されるというわけである。

女は怖い

  • 2015.07.04 Saturday
  • 17:09
帰国して1年半どうも前の女房が俺の事を悪く昔の仲間に吹き込んでいると見え皆俺に批判的になっているのに気付いたので50の時したためた自伝の抄を残しておく。

ハワイから戻ってからが大変だった。 空港に到着すると女房の両親は迎えに来ていたが、私の両親は元々息子の送り迎えする様な人間でないし、私の関係の人間は一人も居なかった。 そこには気まずい雰囲気がただよい、私達は挨拶もそこそこで別れた。 後で、女房が私を訪ねて来て、「第三者を立てて話し合いましょう」と言うので、私は、「そんな事をしたら、親戚の前で言いたく無い事迄言わなくちゃならなくなるけど良いのか」と言ったのである。 それ迄の彼女に比べかなり強気な発言で、周囲の人間に色々入れ知恵されたなとその時私が感じたからである。 私達の間には、私の浮気意外に彼女にも色々あり、私はその原因が全て自分にあり、全ては自分の責任であり、彼女の事は一切誰にも話さない様に決めていたので、彼女にもその事を理解させたかったのである。 慰謝料についても、その当時結婚六年間で貯まったお金が六百万程あり、半分以上は財形貯蓄に廻っていて、私としてはそれを崩すのは致命的であると思ったので、私からは二百五十万支払って、それで勘弁して貰いたかったのだが、受入れて貰えず、仕方が無いので、残りは私の親からとれと突っぱねてしまった。 後で聞いた話だが、彼女が嫁入り道具に持って来た電化製品等を私の家族が引き取って、残額を渡したらしい。 その後は以外とスムーズに運び、翌月の初旬には離婚届けの提出も済み私達は正式に離婚してしまった。 その時も私は結婚した時と同じに、中学三年生の時のスキー旅行の時のEのあの言葉を思い出していた。「柳田は絶対女で失敗する」。

自分の住んでいた所は、先にハワイから戻った兄の家族が住んでいたし、仕方が無いので私は裏庭に建っているアパートの一室に収容された。 二月の寒い日だった。湯沸かし器が無いと母に言うと、怒って「ここはハワイじゃない」と言った。たまらないので、荷物を纏めて家を出る事にした。 それから暫く高井戸のアパートで暮し始めた。 その頃別れたた女房も、実家の近くにアパートを借りて暮し始めた。 どう言う訳か自分も引っ越しを手伝った記憶があり、その時ハワイで一緒に仕事をしていた少年院上がりの漬物屋のKが手伝いに来ていた。 それでも、私は未だその時二人が関係がある等と思ってもみなかったのである。 その後少し経ってから、私が別れた女房のアパートを訪ねる機会があり、その時女房が関係を迫って来た時に、マリファナを吸うか私に聞いてきたので、その時はKの奴から貰ったんだなと思った程度で、わざと私が、「そんな物誰に貰ったんだよ」と聞くと、以前ハワイイで住んでいたテラス・ハウスに住んでいた私も仲が良かった、日本人と韓国人のハーフのホステスの名を出して、「J子にハワイに居た時に貰ったのよ」と言ったので、Jが普段はマリファナを吸う様な女ではない事を知っていた私は、「あいつはマリファナを普段は吸わないのに、お前にくれる訳無いだろ」と言ったのでだ。 すると、彼女が急に慌て出したので、何かおかしいと思い、それ以上詮索もせずに、大体私は日本でマリファナを吸っている程暇でも無かったし、マリファナを吸いながらセックスする趣味も無かったので、私は急に白けてしまい帰って来てしまったのである。 その後少ししてから、私はその漬物屋のKの女房から呼び出され、お宅の奥さんと家の主人が浮気していると評判になっていると文句を言われる迄Kと女房が出来ていた事に気付かなかったのだから、「俺も間抜けなもんだな」とその時思ったのを覚えている。 文句を言われた時は、既に離婚届けを出した後だったので、奥さんには「離婚した人間の事は申し訳ないけど、責任は持てない、だからと言って俺が貴女と寝る訳にも行かないし」と断った。 誰かと出来ているのは知っていたが、まさかKだとは気が付かなかった。 そう言えば、自分達が帰る時空港にKが送りに来ていて、涙を流しているのを見て、変な奴だなと思ったが、女房と別れるのが寂しくて泣いていたのだと思った。

学生時代もそうだったが、その時も私のテリトリーで仕返しをしようとし、人間関係を壊してしまうのはどうも彼女の性格らしいと、その時確信したのだ。 その後私が、所沢に住んで居た時も何回か電話で復縁を迫られたが、その度に彼女は酔っぱらっていたので、酔っ払いが嫌いだった私は一度彼女を怒鳴り付けてしまい、それっきり電話も無くなってしまった。 私が沈黙を守り続けたので、母等は真相が知りたかったのか、それとも只の好奇心だったのかは定かでないが、常に鎌を掛けて来たが、その後十年以上私は押し黙っていて、母が事実を知ったのはつい最近の事である。 風の便りに彼女も再婚して子供が出来て幸せに暮していると聞いた時は、私も心の何処かに引っ掛かっていた重荷が取れて少し楽になった。

その後、ハワイに居た時離婚の原因になったMが追い掛けて来て一緒に暮す事にした。 その時のアパートが二人には何とも言えず狭いので、会社から金を借りて所沢にマンションを買い、引っ越した。 その時も、母から三百万円を一月半借りただけで、兄弟から文句が出た。 私は一月後に、結局は後で母が現金で返してくれたが、利子を付けて三百五万の横線小切手を作り、持って行った記憶がある。 Mとは一年一緒に居たが、彼女はある大きな新興宗教に入っていて、私の持っていた十字架は捨ててしまうし、母親が日本に訊ねて来た時、会の支部に、私が信教の自由を与えないと虚偽の訴えを起こし、或日自分が家に帰ると、私がなけなしの金で近所の家具センターで買った炬燵にその親子を含めて五人の人間が入り、宗教論争が始まった。 私はその連中に、「私は仏壇の部屋も与えているし、幼児洗礼のカトリックだから私の年と同じ位の歴史しか無い宗教に転向する事はない」と言って説明した。 最初の内は宗教論争を仕掛けて来た人達も私に歯が立たないと思った途端、親子に鉾先を向けた。 その次の日家に戻ると二人の痕跡は跡形も無くなっていた。

それからが苦労の始まりだった。 これが所謂「群の制裁」と言うものなのか、独身の時は何人の女性と付き合おうが、誰も何も言わないが、一度離婚すると、途端に付き合う女性の数を数え始めるものである。 所沢の生活は大変だった。経費を払うと、可分所得は僅か数万円という生活だった。 ある時、自分のその時所属していた商事部で、御中元の内見会があり、その後場所を提供する店側の担当者と飲みに行き、酔っぱらってしまい、知らない高級な店に迷い込んでしまったい、散財を余儀無くさせられてしまった事がある。 それが元で、折角新調しようと思っていたスーツを断念する事になってしまったのである。 その後、珍しく法事に呼ばれ、袖口の擦り切れたスーツを着て行った私を父が見て、「馬鹿にしてるのか」と怒った事があり、私には「馬鹿にしているのでは無く、買えないのです」と、答えるしか無かったのを今でも覚えている。 それ以来私は、村八分ならぬ村十分になってしまい、家族写真にも入れなくなってしまった。 一度家族写真の話を父にした事があるが、その時父が言ったのは「誘ってもどうせ来ないだろ」という一言だけだった。 私の父母とはいつもこんな風なのである。

ネットストーカー追放にご協力下さい。

  • 2013.06.02 Sunday
  • 09:24
 【スティッカム・ツイキャス事件簿】

【参考ユーチューブ】

再開

  • 2013.05.03 Friday
  • 11:32
 再開します

柳田國男を継承する会

  • 2013.02.01 Friday
  • 06:34
JUGEMテーマ:人生論
柳田國男がパブリックドメインになり、俺のお袋の著作権継承者と言うこの世でもっともみっともない恥ずべき肩書きが期限切れになり、お袋の野望に兄が加担してた事が発覚し、俺がニコラスクザーヌスの個は全を包含すると言う言葉を体感した事は、日本が変わるべき時が到来したと言っても過言ではない。 1月30日 柳田芳秋AKA狂四郎 柳田芳秋AKA狂四郎 ?@kyoshiro2067 とツイッターで呟いたが、 末っ子が「個は全を包含する」ってのを体感したと言ってる時に、欲の皮の突っ張った家族は俺に相続放棄を迫る程度の低さである、 「今回はかなり痛手だった、成城は古戦場の為に地下室を掘ると主人が死んだりたたるという言い伝えがあるが、それをお袋、次兄と次々と破って、次兄なんてクルゾン病の子が生まれ、皆狂ってしまった、これが民間伝承の元祖の家で起こってるのだからたまらない、俺はオーストラリアに逃げて助かった。」 てな訳で狂四郎こと柳田芳秋は 当初気の弱い長兄を全面的にサポートし、相続放棄しようかと思っておりましたが、今回母親の成城バブルに長兄が加担していた事が判明した事を受けて、たとえ生前排除されようが現在成城6丁目にある小生の名義分に遺留分を加え、私財を投げ打ってでも悪の枢軸と戦い、祖父の名誉及び柳田國男の逝去した成城6丁目15の10の権益を保持し、そこに慰霊碑の建立を実現するまで生きる事に致しました。 「柳田國男は『先祖の話』で「祖父が孫に生まれて来るという事が、或いは通則であった時代もあった」と書き、「霊になってからもこの世に残って丘の上からこの国の行く末を見守っていたい」と、わざわざ自分の墓を川崎の公園墓地に生前に購入した位であり、その遺志をないがしろにする小生の家族の態度は許されるべきではありません。 未だ具体的に活動内容が決まった訳ではありませんし、配偶者の意思も尊重しなくてはなりませんので、今後特別に資金を確保し、オーストラリアならではの金利の良さを利用して基金を創設したいと思います。 今のところ署名運動にするのか、ペイパルを利用した資金集めにするのか定かでは御座いませんので、追って考えて行きたいと思って居ります。 悪さをした人間より真実を暴露して風波を立てた人間が責められる日本の社会と言うものは嫌と言う程熟知して居りますし、こう書いただけで「奥様と仲良くオーストラリアで成仏なさって下さい」と言われるのは百も承知の事ですのでご了解下さい。 つきましては、以前よりしたためております、柳田國男を継承する会のHPを活性化すべく、掲示板も用意致しましたのご意見を賜りますようお願い申し上げます。 【柳田國男を継承する会】

涙は天の恵みである

  • 2013.01.25 Friday
  • 07:11
僕は常々涙は天の恵みだと考えている、 涙が枯れ果てる位泣くと大きな力が助けてくれると信じている、 詰り「自分が幾ら努力しても何かが成就出来ない時は努力が足りないと思うしかない」と言う人生訓と一緒で、泣きつかれて何の為に 泣いたかすら忘れた頃に大きな力が働くと言うわけだ。 今迄僕は何度となくその大きな力に助けられて今迄生きて来た、 女房と出会った時もそう思った、 神は僕の欲するものを常に与えてくれているのだが、僕が分相応なものを欲しない限り、身に付ける事が出来ないのだと悟るまでに 時間が掛かってしまった、つまり分を知る事であり、自分が何を欲してるのかを知る事なのである。 それはさておき、一昨日pcに向かいながら故郷を想い止め処なく涙が流れた、そして昨日長兄の裏切り行為にも匹敵する欺罔行為 である。 年老いる傍若無人な母親、益々仲が悪くなる兄弟、殆ど生きる希望と迄言われる親兄弟が上手く行かないのは致命的である、幸いな 事に優しい女房に支えられているのでかろうじて生きてはいるが。 そんな中で祖父の霊が動いたのを感じた、今迄20年間謎として放置されていた、成城の土地売却事件の真相が明らかになったのだ 、内容は今迄しつこい位書いているのでリンクをご参照頂きたいが、日本の社会が腐ってしまった昨今我が家とて例外じゃないという 事を見につまされてしまった。 【土地売却事件の全貌】

新事実発見、舐めやがって、詐欺野郎

  • 2013.01.24 Thursday
  • 14:02
最近何故か日本の事が気になって、相続が始まったらこの兄弟の状況で参るななんて考えていて、女房にも相続放棄していいかなんて訊いたりして、母親の葬式にも出たくないななんて考えていたら、 ふと以前から気に掛かっていた白馬綜合開発が分譲したみそらの別荘地の事を思い出した、 どう言うわけか10年前の親父が死んだ時の相続リストにも記載されていない、 だめもとで会社のHPにアクセスしてみると白馬綜合開発への直接の問い合わせのページがあるではないか、 早速問い合わせを入れると昼過ぎに担当の女性が返事を呉れた、 ご丁寧にも登記簿写しまで添付してくれた、 なななんと、所有権は母親以下長男兄嫁、姪っ子二人に二回に分けて贈与されているではないか、大体何かおかしいなと思うとこれだよ、やっと謎が解けた、祖母が文筆登記した孫四人の土地の長兄の部分だけが、所有権移転していた原因が、俺が母親に嫁の分際で先祖代々の土地を売るとはけしからんと詰め寄った時の長兄の態度、別荘地贈与の賄賂で結局買収されていたってわけだ。 【柳田家は狂っている】 ここまで馬鹿にされて、俺が協力すると思ったら大間違いも甚だしい、舐めるのもいい加減にしろってものだよ、

素晴らしいシェフを近所に発見「喜助」

  • 2012.10.25 Thursday
  • 09:09
喜助 夕べ僕の誕生日祝いに近所のジャパレスに行って来た、これで3度目だったが毎回素晴らしいの連続だったので是非皆様にもお試し頂きたい。

フェイスブックにもページがあるから是非お立ち寄り頂きたい、僕も三度ともメッセージを残したくなる位美味しいのだ。

 「ご馳走様でした、味は最高、サービス最高、ジャパレス特有のぎこちなさが無くて素晴らしい、これはひとえにシェフの自信から来るのだろうと女房が言って居りました。」

 「ご馳走様でした、僕は日本人64年近くやってるけど、ここは味付けが洗練されていて何処に出しても恥ずかしくない一流だと思う、大げさじゃなくてわざわざ気張ってテツヤ言ったりノブ行ったりサケレストランに行く必要が感じられない、皆さん是非お試しを。」

 「ご馳走様でした、今まで何故こんな凄いシェフが近所にと狐につままれてましたが、サントリーのヘッドシェフと女房に聞いて、やっと謎が解けました、いつ頂いても素晴らしいです。」

 ざっとこんな感じですが、僕はサントリーレストランはハワイはもとより、パリ店、ミラノ店も気に入っていて、日本を代表するレストランだと思っている。

ハワイ店は余り印象は強くない和食レストランだが、僕が未だ30の時だし一度韓国ホステスを連れていって小皿を隠して持って帰るとごねるので難儀した覚えがある、日系の可愛いウェートレスが僕が東京に戻ると噂を聞いてわざわざ挨拶に来て呉れた事もあった、彼氏が僕の店があったホテルで働いてたらしい。

 ミラノ店は僕がイタリアを彷徨って居る時和食が恋しくなった時利用していたが、中途入社で今じゃ東急百貨店の常務まで上り詰めた、tanno氏がミラノの駐在員をしてた時に奢った事もあった、東急百貨店事務所の傍にはイスラエル大使館があって機関銃を捧げた門衛が二人居てものものしい警戒だったのを思い出す、電話帳でtannoと引くとタニノクリスティーの次に出て来るから面白かった、家に電話すると突然の電話に奥様が警戒されてなかなか事務所の電話番号を教えてくれず難儀したが、今考えれば事務所の電話を探せば良かったと思った。

パリ店は世話になった事のある不動産屋の社長の秘書を、けちな社長の下じゃどうせろくでもないものしか食ってないだろうと思い、二晩連続で連れて行き、最初の晩はフォアグラを次の日はあん肝を食べて大満足した事があった。

 一度赤坂本店でデリヘル嬢に最高の物を食わせてやろうと連れて行って、値段の付けられない和牛を食べて二人で7万円を請求された事がある、たまたま佐治社長が接待中でエレベーターでご一緒した時、店員が我が社の社長ですからと立ちはだかったので「それがどうした、俺は客だぞ」と言って乗り込んだら、社長が「如何でしたか?」と訊くので「とても美味しかったですが、値段が海外店に較べるとお高いですね」と答えたが、「それは仕方が無い」と言われてしまった事があった。

いずれもバブル絶頂の頃の話なので今はどうなってるのかは知りません、残念ながら僕がシドニーに移住した2000年にはサントリーは既に撤退した後だったので喜助のシェフには会った事が無かった。

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